好漢
誰でも知っている言葉ではあるが、実際はなかなか存在しがたいという言葉がある。
好漢もそんな言葉の一つである。僕らの若かった頃、好漢ということでもてはやされたのが石原裕次郎であった。確かに裕次郎はいい男であり、好漢であった。それは映像の中で作られたものであって、実際のほどはわからない存在であった。ところで、成島忠夫は好漢そのものであり、この言葉は彼のために作られたようなものである。
会えば、忘れがたいし彼と飲むためなら女房の不機嫌も承知で駆けつけたいと思もわせる男だ。今回は彼の意思と決意のために駆けつけたい。
2010年の改憲の発議
いつの間にか街では紫陽花の美しい季節になったが、選挙で騒がしい。
いつものことならこの蒸し暑い季節に選挙かよと敬遠したくなるのだが、どうも今回はそうはいかない。自民党が選挙公約の第一に「2010年の改憲の発議」を掲げているからだ。選挙公約は破られるためにあるといわれたりもするがこの公約はそんなありふれた「言ってみるだけ」の公約ではあるまい。品位も風格もなくしている自民党とはいえ、自分たちの沽券をそこまでは貶めはしないだろう(?)
改憲反対の議員を参院に
「2010年の改憲の発議」には、さしあたりこの参院選挙で「改憲に賛成する三分の一」の議員の確保を必要とする。
自民党は公明党含めた与党で過半数の議員の確保が危ぶまれているのに、どんな魔術があるのか。永田町でしか伺い知れない世界の思惑や論理があるのかもしれないが、我々は確固とした改憲反対の議員を当選させるしか手がない。野党の大半を占める民主党の議員の改憲の意向が不透明であるという中での選挙だから、足元が暗いのだが、我々は政策としても人物としても改憲に反対の意思の固い議員を参院に送るしかない。
選挙を「祝祭」に
選挙は一票を投じる行為であり、一票を投じてもらうための行為である。その一票の行方と結末を考えると「虚しさ」が伴う、それは避けられない。
だが、その一票を投ずる行為を豊かで楽しいものにすることでこの「虚しさ」を補うこともできる。一票という行為のために国家や社会の歴史とこれからを考え、悩実、共有するための討議や対話もできるからだ。
一票を投じ過程の中にドラマを組織し、それを楽しもうではないか。誰かが、選挙を祭りといっていたが我々はそれを「祝祭」にしようではないか。
三上 治