桑田選手に喝采!
BSで放送されている大リーグの放送にはまっている。時には朝方の放送まであるから体はきつい。
眠気眼をこすりながら見ていたら桑田選手が登板したのには驚いた。ベンチで桑田を見つめる松井選手の横顔がアップされた時は不思議な気持ちがした。何を隠そう僕は熱烈な巨人ファンであったからだ。松井選手にはどこか物足りなさを感じているが、桑田選手には無条件の喝采だ。
野球選手としては晩年を迎えているに違いないのだが、晩年という常識に挑戦するところがよい。
晩年という常識に挑戦
野球の世界では桑田選手は間違いなく晩年を迎えている。でも、彼は野球選手の迎える晩年という常識に挑戦し、それを変えるべく戦っている。彼には無意識の行為かもしれないが、彼は晩年の星である。結果なんてどうでもいい。
ところで政治的世界ではどうであろう。政治の世界には桑田選手のような存在はいない。自民党で言えば加藤紘一や山崎拓などが該当するのかもしれないが、彼らの影は薄い。安倍首相やそれを取り巻く政治家たちに牛耳られていて彼らの声は届いてこない。
共通する「精神の無頼性」
憲法の改定に反対する運動では最近ではあるが1960年の安保闘争の世代が登場し、運動をリードしようとしている。「9条改憲阻止」というグループがそれだが、これを構成している面々もまた晩年の常識に挑戦している。
成島さんはその一人と目されているが、それ以上に彼の今回の参院選挙への挑戦は晩年の常識への挑戦である。
僕は桑田選手の姿をテレビで追いながら、何となくイメージをダブらせていた。この世の中を変えていく人間が根底に持っているものは「精神の無頼性(自由性)」である。桑田選手にも成島さんにも共通しているのは、この「精神の無頼性」である。
時代の常識に挑む
人間を信頼し、信用するのが難しい時代になった。マニュアルや制度がはびこり、その人間の根底からの声が届かないからだ。
制度が大きくなってしまった結果なのか、人間が根底をもてなくなってしまったからか。国民の声といってもそれは名目であり、選挙用のマニュアルの言葉に聞こえてしまう。それを口にする人が国民という根底を持たないためだ。
僕は成島さんが現在では珍しい根底を感じさせてくれる男であると思っている。晩年の星が輝くことで、時代の常識を覆したい。少なくとも時代の常識に挑みたい。憲法の改正の賛成が多数になったといわれる。マニュアル的な政治的常識がはびこっているからだ。これは根底を失った政治の象徴である。
だからこそ挑戦するものが必要でもあるのだ。
(文責 M)